2021/06/12 05:42

カトリン先生のリートクラスでは、またまたリートの奥深さを堪能できたものでした。
ちょっとした例をお伝えしたく思います。

リートの奥深さというのは、詩と音楽、両方の理解、発見にあります。詩を1回さらっと読んで、理解したとしますが、よくよく読むと実は、気がつかなかったことがあったりします。それが、結構音楽に反映するのです。なぜなら作曲家は、この深い意味を知って作曲したからです。

例をだします。

メンデル・スゾーンの「小姓の歌」というのがあります。アイヒェンドルフの詩で、太陽あふれる南国で、マンドリンを手に、可愛い子と素敵な夜を過ごせたらなあという内容です。ピアノも全部スタッカートで書かれてあり、まるで、マンドリンを爪弾いているような軽やかな曲です。
一見、なんの深刻さも感じない素敵なセレナーデと聞かれると思います。

しかし歌詞をよく読むと、Wenn die Sonne lieblich schiene wie Welschland, lau und blau, ging ich mit der Mandoline durch die überglänzte Au」「もし太陽が愛らしく輝くなら、光り輝く野をマンドリンをもってでかけていく」と接続法(仮定法)で書いてあります。もしという仮定を使うときは、普通だと現在法を使います。しかしこの文では、「輝く」、「出かけていく」が、接続法になっています。
どういうことかというと、接続法というのは、もともと現実には、無理であろうという、「願い」に使われます。
ということは、この「小姓の歌」では、小姓の現実にはかなわない願いが書かれているのです。
それを考えると、この小姓の生きている環境が想像できます。南国、イタリアには太陽があって、楽しい夜のひと時を恋人と過ごす、もしかしたら、こんなバカンスができる身分でない立場かもしれません。ドイツは、冬が長くて暗い空が続きます。そんな憂鬱な中、身分も自由でない小姓の南国への憧れ、楽しい人生の憧れとも考えられます。

このような小姓の立場で、この歌を歌うと楽しいというより、切実な憧れを感じると思います。それが、blau や Welschlandに長い音として、しかも sFに書かれてあるのが、納得できます。

このような詩からの深い考察により、この歌を歌う、演奏するときのモチベーションが、はっきりとし、インテシヴな表現につなげれます。

それが、私にはリートの世界の一番素晴らしいところだと思います。


(Triboltingen ボーデン湖。ドイツがもうすぐそこです。自然保護地区。)